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2011年10月12日 (水)

【特別企画・写真あり】震災7か月後の南相馬・相馬を見に行きました

携帯電話 ケース 津波
(クリックで拡大)

以前の記事でも書いた通り、僕は福島県南相馬市(旧原町市)の出身です。
震災以来ずっと帰省できていなかったので、この週末に1泊2日で帰省してきました。

地元南相馬は福島県の海沿い、北のほうになります。
ここらあたりはご存じのとおり「地震・津波・放射能」の三重苦となってしまっているのですが、その中での「普通の人の普通の暮らし」を生で見て・撮影してきたので、記録として書いておこうと思います。

というわけで本日は特別企画。
僕の目を通した主観もかなり入っていますが、ぜひご参考になれば。

なお、本日掲載している写真はすべてFlickrの 2011.10.08-09 Minami-Soma & Soma, Fukushima というセットに上げています。ぜひあわせてご覧ください。


ルートと言葉の定義
東京方面から地元まで行くときには、通常は常磐自動車道かJR常磐線を通ります。が、現在は両方とも寸断されているため、東北新幹線を使い福島駅から父の車で地元に入りました。しかしながらもともと常磐線は遅く、自動車道も途中までしか開通していないため、時間的には福島経由でもあまり変わらなかったです。

福島から地元までは、「計画的避難区域」となっている飯舘村を通ります。
そこは全村避難対象なので、家はあるものの人気がない状態。
確かにこれなら僕も「死の街」と呼んでしまいそうです。

おっと、その前に言葉の説明・定義をしておかないといけないですね。
僕も地元に入るまで結構あいまいでした。

■警戒区域
福島第一原発の半径20km範囲内のエリア。
立ち入りが禁止され、住民は避難(退去)しなければならないエリアです。
「一時帰宅」でいろいろ話題になっているのはこの範囲内。
2011年4月22日 AM0時から設定。

■計画的避難区域
半径20kmの警戒区域よりは外側だが、年間20シーベルト以上の被ばくの恐れがあり、国が避難を求めている地域。2011年10月11日現在では「飯館村」「川内村」「南相馬市の一部」などが該当しています。
川内村は上記の20km圏内のエリアもあるのですが、結局は全村避難になってます。

■緊急時避難準備区域
福島第一原発から半径20km以上30km以内のエリアで年間の累積放射線量が20ミリシーベルトに達する恐れがない地域。健康には影響がないと思われるが、「いざという時は避難できるように準備しておけ」というエリアで、特養などの介助が必要なお年寄りが入居する施設は事実上運営できない地域でした。僕の実家もここのエリアでした。
なお、2011年9月30日にこの区域自体の設定が解除になっています。
なので、今後は(制度上は)学校や施設の運営も可能になりました。

■特定避難勧奨地点
避難の強制はしないが、「ここやばいから避難したほうがいいよ」と言われている地点。上記3つと違って、家単位で設定されます。南相馬市でもこの記事時点で59世帯が設定されているみたいです。

ちなみに南相馬市は上記のすべてを内包しています。
20キロ圏内で強制退去になっているところから、一応「問題なし」と言われている地域まで。これら指定地域の種類が多いことも、地元の行政を難しくしている理由の一つだと思います。


被害状況全般
まずは総論から入りますね。
到着した地元は「本当にここが被災地?」と思うほど、普段と同じ秋でした。
実家は海からも遠く、震度の割に地震被害も非常に軽微だったので、目に見える損害はなし。家族はいつものように出迎えてくれました。半年以上たっていることもありますし、小さな子供がいないこともあって、生活は大分戻ってきているみたいです。

ただ、やはりそこは被災地。
三重苦で言うと「放射能」の影響を一番もろにかぶっていましたね。

以下、それぞれの影響について写真を交えつつご紹介します。


放射能
福島第一原発 20km 検問
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やはりもっとも影響があるのはこれでしょう。

写真は南相馬市の南部、20km圏内の境目になります。
ここから先は一般の人間は立ち入り禁止。震災後7カ月たった今でも、封鎖時と同様に警察車両が検問しています。

実家はここからは外側の旧「緊急時避難準備区域」に当たるのですが、2011年は農作物の作付が事実上禁止になりました。なので、「農家なのに野菜やコメを買って食べる生活」になってしまっています。
父などは特に農業への意欲が強いので、やはり作物が作れないというのは苦しかったようですね。


津波被害
家 津波 1階
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沿岸部に行った時の写真です。
海沿いはがれきが散乱し、まだまだ「復興」どころか「復旧」にも程遠い感じ。震災直後に自衛隊などが来てくれていたときには、おそらく道路の復旧を最優先としてがれきの撤去が行われたのだと思いますが、頼みの綱がいなくなった今はそれ以外のがれきがまだそのまま残っています。

写真は住宅地で津波の被害を受け、1階の一部が完全になくなってしまっている家。当然もう住むことはできませんが、こういった家の撤去や再開発は全く進んでいません。住んでいた方が亡くなってしまった家も多くあると思われるので、今後どう復旧していくのか段取りさえ付けられないのではないでしょうか。


地震被害
瓦が落ちたり、壁にひびが入ったりした家は多数ありますが、地震だけならそこまでの被害拡大はなかったのではないかと思います。とはいえ、まだ瓦が上げられずブルーシートがところどころにかかった家というのも結構見かけました。
現場はまだまだ材料も職人も足りていないようです。


家族から聞いた生の状況
冒頭でも書いたとおり、僕の家族は幸いにして全員無事でしたし、小さな子供もいないため、今はこれまでとあまり変わらない生活に戻ってきています。

ただ、震災後は「命はいつなくなるか本当にわからない。なので、これまでは将来のために我慢してきたようなことも少し積極的にやってみる」という心境の変化が生まれてきているようですね。決してぜいたくするというわけではないのですが、あまりに我慢して生活するのも良くないという風潮になってきているようです。

しかしこの流れで行きすぎてしまった人もいるようで、現地では今パチンコ屋や風俗店などの業種がかなり流行っているそうです。特に農家は仕事ができないところにそれなりに多額の補償金が入ってきていたりするので、そういった類のところに出かけてしまう人もいるとか。ひどい人になると、生活保護を受けていながら補償金を全額使ってしまい、さらにお金を借りに来るような人もいたそうです。

もちろんこういった人は一部なのですが、こういう話があると被災地の印象をぐっと悪いものにしてしまいますよね。母などは「やっぱり降ってわいたような金は人間をダメにするな」と話していました。その時までに作られてきた人間が表に出てしまうとのことで、こういったところも間接的には今回の被害なんだろうな…と感じた次第です。


以上、大変長くなりましたが震災7カ月たった「生」の感想です。
文章だけではどうしても伝えきれない部分が多くて、ちょっともどかしい部分が多いです。でも、皆様に何か感じてもらえればOKかなと思っています。

復興までは相当長い時間がかかりますが、それでも一歩ずつ目の前のことをこなしながら進んでいくしかないな~、と思った帰省になりました。


関連サイト
2011.10.08-09 Minami-Soma & Soma, Fukushima (Flickr)
いろいろ撮ってきた写真の一部を掲載しています。
この記事に載せきれてない写真も多くありますので、ご覧ください。

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コメント

現場に訪れたからこそのリアルなお話有難うございます。
先日、週刊誌でパチンコ店大繁盛の記事が掲載されていました。

投稿: みっちゃん | 2012年3月27日 (火) 10:47

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